法曹養成フォーラムの第3回議事録が先週末に公開された。
http://www.moj.go.jp/housei/shihouhousei/housei01_00056.html
私は例によって、法科大学院維持派の委員に注目しているが、今回も井上委員と伊藤委員、鎌田委員が吠えている。
井上委員
「(貸与制は自分も関与し一生懸命考えた良い制度だと自画自賛し、給費制維持の主張は不可解と論じた上で)
もう一つ,志願者減の話を川上オブザーバーはされたのですが,御発言の中でいみじくも言っておられたように,志願者が減っている最大の原因は,司法試験合格者の数が低迷というか伸び悩んでおり,合格率が下がっているということにある。社会人については特にリスクが高いわけで,そこに主因があるのに,日弁連では,他方で,合格者数を更に削減すべきだということをおっしゃっており,言っておられることが矛盾しているとしか思えません。また,法科大学院から司法試験,司法修習を経て法曹資格を得るまでに全体として5年間という長期間を要するという御指摘も,それはそのとおりなのですけれども,制度改革以前の状況を考えてみますと,大学在学中から司法試験に挑戦して受かるとしても,30歳前後になってようやく受かる。しかも,合格率は3%くらいでしかありませんでしたので,多くの人はそれでも受からなかった。その何年もの間どうやって受験勉強をしていたのかというと,多くの人は予備校に行っており,その費用だけでも当時の額で数十万円から100万円を超えるという状態で,これ以外に生活費等が当然かかっていた。例外的な人はいましたけれど,多くの人はそれくらいの状況におかれていたのです。それに比べて今の制度の方が,もちろん万全とは言えないですけれども,相当に整備され改善されていると私などは思っています。実際に学生たちと話して,なぜ法科大学院を選ぶ人が減ってきているのかと聞くと,司法試験に受かった後の給費制・貸与制の問題ではなく,それより前のほうのハイコスト・ハイリスクにあるという答えが返ってきます。ロースクールにお金が掛かるのに,司法試験に受かるかどうか分からない。こういった状況がコストに比べて非常にハイリスクだということなのです。ですから,そこのところをどうやって手当てしていくかということが,むしろ肝要なのではないかと私は考えます。」(下線は坂野が追加)
あ〜あ。どうしてこう学者の先生って、ご自身の見込み違いを認めることが出来ないんでしょうか。エライ先生ほどそうなのかなぁ。
未だに、井上委員は、法科大学院志願者減少の原因を、新司法試験合格率の低迷に求めている。
まず、司法試験は、法律で、「裁判官、検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験とする。」(司法試験法1条1項)と決まっている。つまり、どんなに法科大学院がいい教育を仮にしていたとしても上記の学識と応用能力がなければ、どれだけ井上委員が法科大学院擁護を述べても合格させることは出来ないのだ。
当たり前だ。法曹になるために必要な学識と応用能力が認められないんだから。
そればかりか、実際の採点委員の意見によると、こんなレベルで実務家登用試験に合格させて良いのか不安に思う。という趣旨の意見もあるくらいだ。
法的三段論法すら出来ていない答案が多いとは、法科大学院教育の崩壊を示す指摘でもある(平成21年度新司法試験採点雑感に関する意見参照)。フォーラムの有識者委員には、せっかくその資料をお送りしたのに、無視されたのかなぁ。それともエライ先生には、新司法試験考査委員の意見など、捨て置けという、おつもりなんだろうか。
現実を見ない点では、もっと問題があるように思うんだけれど。
何度も指摘しているが、井上委員が指摘している旧司法試験は、合格率が2〜3%だったが、志願者は年々増加していた。合格率が志願者の数を決めるのであれば、当然旧司法試験の志願者は減少していなければならないんじゃないのだろうか。こんなかんたんな質問に、エライ学者さんは答えてくれない。奥島氏もそうだった。
旧司法試験についても、合格者の平均年齢は30歳にはなっていなかったはずだ。
平成元年からの司法試験合格者平均年齢は、私の資料によると以下のとおり。
平成元年 28.91歳
平成2年 28.65歳
平成3年 28.63歳
平成4年 28.22歳
平成5年 28.29歳
平成6年 27.95歳
平成7年 27.74歳
平成8年 26.35歳(但し、この年以降若手優遇枠〜いわゆる丙案〜あり)
平成9年 26.26歳
平成10年 26.96歳
平成11年 26.82歳
平成12年 26.55歳
平成13年 27.42歳
平成14年 27.52歳
平成15年 28.15歳
平成16年 28.95歳
平成17年 29.03歳
平成18年 29.33歳(旧試験) 28.87歳(新試験)
平成19年 29.9歳(旧試験) 29.20歳(新試験)
平成20年 29.8歳(旧試験) 28.98歳(新試験)
平成21年 29.5歳(旧試験) 28.84歳(新試験)
平成22年 28.8歳(旧試験) 29.07歳(新試験)
なんのことはない。新制度になっても、30歳前後になってようやく合格することには変わりがないのだ。
しかも新制度だと、法科大学院を卒業しなければ受験すら出来ない制度であるため、法科大学院通学〜卒業のための費用がどっかとのしかかる。仕事も辞めなければ法科大学院にはまず通えない。5年間で三回失敗すれば受験資格さえ失われ、かけてきた費用は丸損だ。
旧制度だと、仕事をしながら何度でも受験できた。つまり職業を持っている人は仕事を辞めて法科大学院に通う必要がないので、受験しやすかった。優秀な人間は長時間の回り道(法科大学院)を通らずに済んだ。当然法科大学院に支払う高額な費用も不要だった。自分の仕事と収入の範囲内で、司法試験に時間と費用をかけて実力を身につけチャレンジすることが出来たのだ。
さて、どちらがより公平で、開かれた制度であり、どちらがよりリスクの大きい制度であり、どちらがより多くの多様な人材が法曹界を目指すことが出来たのかは、おつむの偏ったエライ先生方以外は、もうお分かりのはずだ。
いみじくも井上委員本人が、言っているではないか。
「実際に学生たちと話して,なぜ法科大学院を選ぶ人が減ってきているのかと聞くと,司法試験に受かった後の給費制・貸与制の問題ではなく,それより前のほうのハイコスト・ハイリスクにあるという答えが返ってきます。ロースクールにお金が掛かるのに,司法試験に受かるかどうか分からない。こういった状況がコストに比べて非常にハイリスクだということなのです。」
坂野注(井上委員は無視していますが、坂野としては、新人弁護士の就職難・低収入化など、リスクとコストに見合ったリターンが見込めなくなってきた面も相当強いとは思います。)
それなら話は簡単だ。ロースクール制度を止めればいいじゃないか。
都合の悪いところを無視して、自分の主張だけ言いつのるのなら、中学生だって出来る。井上委員には、もっと大人の議論を期待したい。
(余力があれば続けますね)。
※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。
(前回の続きです)
今回は、ロースクール擁護派の伊藤委員(山梨学院大学法科大学院客員教授)の発言を見てみます。
「(自分は検事を辞め、弁護士登録し、法科大学院客員教授になっていることを述べたあと)私はずっと前からこの問題を考えるときに,所詮この給費制・貸与制というのは司法試験に合格した人の話ではないかと。だから,余り感動を覚えないんです。特に地方の法科大学院などへ行っていますと,受かるか受からないか分からない。当初の合格者の数も当てにならない。しかも合格率も予想していた数字とは全然違うということで,とにかく受かりたいから来たと。だから,受かった先にお金をもらえるか,もらえないかということについては,学生はほとんど関心がない。それよりは,とにかく約束どおり数字をきちんと保障してくれて受かるような体制をつくってくれというのが彼らの一番の声ではないかと私の周りの人たちは言っております。つまり,受かって給費してもらえるか貸与してもらえるかという人よりはるかに多くの人たちが法科大学院に入りながら,恐らく三振でアウトになって外れていってしまう。その人たちのかかったものをどうやって補償してやるのかということのほうが私にとっては心配だなと。ですから,言いかえれば,言葉は悪いですが,もしそういう受かった人にくれてやるようなお金があるのなら,法科大学院で勉強し,司法試験に合格し,かつ就職する,そういう法曹養成教育全体に対して何らかの支援を考えるべきではないかと考えます。」(下線は坂野が注記)
あ〜あ、またもや、法科大学院にとりすがった方の、利権擁護発言としか思えないなあ。
どうして合格率が当初の目標まで届かないかというと、あっちこっちの大学がバスに乗り遅れるなとばかりに教育体制も整っていない状況であっても法科大学院を乱立させ、それを維持しようと意地を張っていることと、厳格な卒業認定が出来ていないからです。
バカみたいに法科大学院の乱立を認可した文科省などは、確か、競争させて法科大学院を淘汰すればいいと言っていたように記憶していますが(法科大学院協会だったかな)、私の記憶が確かだとして、どれだけ淘汰されてますかね。募集停止はまだまだ、姫路獨協くらいじゃないですか。
乱立させておきながら、約束した淘汰をしないから、ロースクール生が溢れ、合格率が下がるんです。小学生でも分かる理屈でしょ。
そればかりではありませんよ。先日、大阪弁護士会法曹人口・養成検討部会では、山梨学院大学より遥かに偏差値の高い関西有力大学ロースクール2校の実務家講師においで頂いて、 実情をお聞きしました。その先生方に、本音のところ、卒業させて実務家にしても良いとお考えのロースクール生はどれくらいいるのかお聞きしました。
詳しくは言えませんが、お二人平均で、上位4分の1くらいなら、とのお話でした。
ただし、お金を頂いて教育しているのだから諸般の事情から、厳格に卒業認定してダメな人を落とすことは出来ないのが現状だとのことです。実務家教員は学者教員と違って、実際に司法試験に合格して合格者のレベルを知っているから分かるんです。司法試験に合格していない学者教員は合格レベルなんてさっぱり分かっていないはずですよ。
仮にお二人の平均をとっても、上位4分の1ですから、少なくとも関西有力法科大学院と同じレベルのロースクールは、厳格な卒業認定をするなら、本来成績上位4分の1以下の方を卒業させてはならんというのがスジです。
おそらく伊藤委員の法科大学院なら、卒業認定できるのは、それ以下の数になるはずです。
これが国民に約束したロースクールの厳格な卒業認定ではないのでしょうか。そしてこの厳格な卒業認定をやれば、合格率は相当上がりますよ。だって受験者が4分の1になるんだから。
ロースクールの淘汰や、厳格な卒業認定という国民への約束も守らずに、ロースクール卒業生の当初予測された合格率だけ守ってくれって、なにわがまま言ってるんですか。子供じゃないでしょ。有識者でしょ。
さらに言えば、ロースクール乱立状態になった時点で、当初の予測された合格率が実現不可能であることくらい、高校生でも分かります。自分の一生をかけた法科大学院進学時に、それが分からなかったと仰るのであれば、法曹になる以前に、状況把握する一般的な能力が欠けてしまっているといわれてもしょうがありません。
三振アウトの人が多く生じてその方々を救済する必要があるというのであれば、法科大学院が責任を持って売り込めばいいじゃないですか。法科大学院関係者や法的ニーズを研究する社会学者の中には、まだまだ法的ニーズはあると仰ってる方がたくさんいらっしゃいますよ。少なくとも厳格な卒業認定(すなわち学生の品質保証)をして、卒業させているのだろうし、法科大学院の目標でもある幅広い教養や豊かな人間性も身についているのだろうから、本来社会では、ニーズもあって品質保証された人材がいれば、当然引っ張りだこの状況にあるはずではありませんか。もし売り込めないなら、ニーズがあるという主張が嘘であるか、法科大学院の厳格な卒業認定が嘘であるか、いずれかでしょう。
どうしても、就職できないなら、ご自分の大学でお雇いになったらいかがですか。法的素養も自分の大学が保証しているわけだし、まさか厳格な卒業認定していながら能力不足とは言わんでしょう。
残念ながら、伊藤委員のこの発言部分は、私には、法曹養成がどうなろうと構わんので、ロースクールの尻ぬぐいを税金でして下さいというお願いにしか読めません。
疲れてきましたが、もう少し続けます。
「それからもう一つは,先ほどの井上先生のお話にもありましたけれども,この問題は結局同じことを議論しているのです,昔の話と。ですから,国が一回決めたことはきちんとやってみるということが必要だと思うのです。法曹に対する信頼あるいはいろいろなものに対する信頼というのは,約束したことをきちんと守るというところに一番あるのではないかと思うわけです。若い優秀な人たちが法律家の世界へ来なくなっているという話が前回も出ていましたけれども,その大きな理由は,我々があるいは国が約束したことを守っていないからではないか,そういうところに問題があるのではないかと。」
あのね、一度決めても間違っているならやらない方がマシなんです。過ちを改むるに憚ることなかれ。過ちを改めざるこれを過ちという。は古今の名言。まさか知らないとは言わせませんよ。給費制を貸与制に変更するにしても、法科大学院制度を含む法曹養成制度が上手くいっていることが前提だったのではないですか?
それに優秀な人材を集めるためには、約束を守ることではなくって、お金をかけるか、権力を与えるか、名誉を与えるか、くらいしかないと思いますよ。それ以外にあるなら是非教えて下さいな。約束を守るだけでヘッドハンティングが出来ますか?もちろん法務博士なんて名誉でもなんでもない。どの弁護士も肩書きに入れていないと思いますよ。誰も格好悪くて使えない博士号でしょ。
都合の悪いところを無視して、自分の主張だけ言いつのるのなら、中学生だって出来る。伊藤委員にも、もっと大人の議論を期待したい。
「それから三つ目は,弁護士会はいろいろおっしゃいまして,その弁護士会の皆さんのお気持ちも分からないわけではないのですけれども,私が感じたのは,今回の調査でも回答率が13.4%と言っていますね。つまり,自分たちは余り関心がないのではないか。とにかく,弁護士会全体の問題として,弁護士全体の問題として,そんなことはあまり考えていないのではないかと感じざるを得ないなと。」
この点に関しては、正しい指摘かもしれません。これは、おそらく、弁護士会がこれまで一般会員の意見を無視して派閥の力学で、これまでの日弁連の意向を決定してきた経緯が大きく影響しているようにも思えます。
しかし、よくよく考えてみて欲しいのです。
今、弁護士として活動している人間にとっては、極論すれば給費制は自分の問題とは全く関係ないのです。あくまでこれから法曹を目指そうとする方について、給費制を論じているのですから。
伊藤委員に即していえば、伊藤委員が法科大学院を退官されたあと、その法科大学院教員の待遇がどうなろうと伊藤委員は普通関知しないでしょう。
そこを敢えて、弁護士が忙しい中、13.4%も回答を寄せたということは、どのような意味があるのか、今一度考えてみて欲しいのです。
まさかその意味も分からずに、伊藤委員が有識者を名乗ることはされないだろうと思うから。
※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。
諏訪敦絵画作品展「どうせなにもみえない」
NHKの「日曜美術館」で放映された番組で、諏訪敦という画家を知った。
番組HPによる紹介は以下のとおり。
記憶に辿りつく絵画〜亡き人を描く画家〜
「亡くなった娘を絵画で蘇らせて欲しい」。1人の画家に来た依頼だ。
画家は独自の写実表現で注目される諏訪敦。
諏訪は以前、舞踏家の大野一雄を1年にわたり取材し、連作を描いた。そして7年後に100歳を迎えた大野を再び取材し描いている。諏訪は写実的に描くだけでなく、徹底した取材を重ねて対象となる人物と向き合い、人間の内面に迫ろうとする気鋭の画家だ。
依頼したのは、2008年の5月、南米ボリビア・ウユニ塩湖で交通事故に遭(あ)い炎上死した、鹿嶋恵里子さん(当時30)の両親である。鹿嶋恵里子さんは結婚も決まり、結納式から10日後の突然の悲劇だった。
依頼した内容は、諏訪の絵によって快活な娘を蘇(よみがえ)らせて欲しい、というものだ。
亡き人を描くために彼はわずかな手掛かりを求め、さまざまな取材・手法から彼女の特徴を探っていく。 自分の表現としての作品性と、依頼した両親の娘に対する思いをどのように1枚の絵画に描いていくのか。諏訪が悩み、葛藤していく様を撮影した。
番組では6か月にわたり諏訪と依頼した鹿嶋さん家族を取材。親の思い・亡き人と向き合った彼の苦悩と完成までの軌跡を追った。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0626/index.html
(以上、NHKのHPより引用)
この番組で、私は、凄まじいまでの取材(苦闘?)を重ねる諏訪敦という画家に強烈な印象を受けた。
その諏訪敦の絵画作品展がこの夏、長野県諏訪市美術館で開催されると聞いたので、どうにも見逃せなくなって、先日見に行ってきてしまった。
(続く)
京都の自宅を午前4時頃出て、途中、高速道路のSA等で休憩しつつ、長野県諏訪市を目指した。
午前8時50分頃に、諏訪市美術館に到着。諏訪市美術館は初めてだが、その隣にあるレトロな片倉館(共同浴場〜しかも重要文化財)なら、何度か利用したことがある。
駐車場に車を止め、開館と同時にチケット(大人500円)を購入して、入場。諏訪市美術館自体も、片倉財閥が築いたレトロな雰囲気を持つ建物(歴史的建造物)で、雰囲気は非常によい。諏訪敦の作品展は2階で展示されている。
開館直後に入場したせいか、展示会場では、蛍光灯が明るく灯っていて、まだ掃除機がかけられている。係の人が、「掃除が終わったので、蛍光灯を消しますね。」といって去っていく。と思う間に、蛍光灯が消され、それと同時に平凡に壁に掛けられていた作品が、薄暗い空間の中に浮かび上がる。
3段真空管が奏でる、BGMの演奏も開始された。
絵を時計回りの順番で見ていく。
まだ開館直後で、他にはほとんど客はいない。
じっくり見るには最高の環境だ。
写実表現で注目されているだけあって、諏訪敦の作品は、髪の一本一本に至るまで極めて精緻に且つリアルに表現されている。
しかし、そこに描かれている人物、特に女性に関して、本来皮膚から発散されているはずの、ぬくもりがどうしても感じにくい気が、なぜかするのだ。
髪はリアルだ。女性が髪をかき上げる際にさらさらと指からこぼれ、流れ落ちるような、感触すら感じ取れそうだ。しかし、それ以外の部分について、この女性は生きているといって良いのだろうか。そう感じてしまうくらい、冷たい感覚を感じる場合があった。
上手く言えないのが残念だが、リアルに表現されながら、なぜか現実感のない不思議な感覚が、ずっとつきまとう。
よく見てみれば、なぜか、諏訪敦は、絵に一見汚れのような、「何か」を描き込んでいる場合がある。
展覧会ポスターとなっている、髑髏を掲げた女性の絵においても、交錯する両手のあたり、うなじのあたりなどに顕著であるが、薄い、オーラのような「何か」を書き込んでいる。頭部が骨となっている麒麟の絵においても同じだ。
故意に違いない。女性の爪に反射する光すら鋭敏に描きとっている諏訪が、過失でこのような汚れを残すはずがない。
一体これは何を意味するのか。
そして、この作品達に囲まれて否応なく感じざるを得ない、このリアルでありながら現実感に欠ける不思議な感覚はなんなんだ、と自問しながら、私は先へ進む。
大野一男を描いた連作を眺め、次に移ろうと視線を外した瞬間のことである。
視界の隅で、赤い衣装を纏い、真ん中に展示されていた、大野一男が突然動いた。
私の視界の隅で、大野一男が口を一瞬かっと開けた・・・・・ように見えたのだ。
慌ててそちらに視線を戻したが、もちろん絵が動くはずがない。でも確かに視界の片隅で、私の感覚は、動く大野一男を捉えてしまった。
この世のものではない異空間を感じたかのように、ざわっとした感覚。
私は、すでに尋常ではない空間に取り囲まれていたことにようやく、気付く。
最後に展示されていたのは、NHKの番組でドキュメントされていた、作品「恵里子」だ。亡くなった娘を絵によって蘇らせて欲しい、という父親の切なる願いを叶えるための作品だ。制作のために参考にされた衣服・時計・義手なども展示されている。
よく、ご遺族が貸し出しに同意されたものだ、と思いながら私は「恵里子」を見つめる。
やはり極めてリアルな描写、しかしこちらを真っ直ぐに見つめながらも心の動きが表れていないように思われる表情、特に手の部分において冷たい感覚、そしてオーラのように彼女を包み込んで描かれている不思議な「なにか」。
私の勝手な想像だが、この作品は、亡くなられた娘さんを蘇らせたものではない。
文字盤のない時計。「恵里子」さんを覆うオーラのような何か。その表情。
彼女が外して持っている時計に文字盤が描かれていないことから、絵の中の彼女にとって、時間は、もはや意味がないことが示されている。
彼女を包み込み、彼女とこちらの世界を隔てるかのように描き込まれたオーラのような「何か」によって、決して交錯することのない世界に彼女が存在していることが暗示されている。
心の動きが現れていないように思えるその表情は、既に彼女があらゆる現世のしがらみから解き放たれ、もう何者にも心を乱されることがない世界に旅だってしまったからではないのか。
卓越した写実の力を用いながら、絵画によって娘を蘇らせて欲しいと願う父親に、諏訪は極めて遠くから、優しく、現実の受容を促していたのではないのだろうか。
そう考えると、諏訪が絵の中に書き込んでいる薄いオーラのような「何か」は、実は、現世と現世ではない世界を明示するために、敢えて書き込んでいるのではないか、という気もしてくる。
余りに卓越した写実の力故に、現実と現実ではない諏訪に描かれた世界が諏訪自身の中で混同を来さないように、若しくは、諏訪によって描かれた世界が現実世界に現れることを諏訪自身が無意識に恐れるが故に、敢えて無くても良いはずの「何か」を書き込んでいるのかもしれない、そう思えてきた。
上手くは言えないが、異空間を体験させてもらった絵画展であったように思う。
(※上記の感想は、あくまで坂野の個人的な感想であり、諏訪敦さんや他の方が全く違う解説をされているかもしれません。悪しからずご了承下さい。)
図録の販売はないが、求龍堂から発売される、諏訪敦絵画作品集(画集)が、会場で先行販売されている(税別3800円)。
明日8月6日、13:30から諏訪敦本人によるギャラリートークも予定されている。機会があれば是非ご覧になることをお勧めする絵画展である(絵画展は9月4日まで)。
(諏訪敦 公式サイト)
http://members.jcom.home.ne.jp/atsushisuwa/
(諏訪市美術館公式サイト)
http://www.city.suwa.lg.jp/scmart/index.htm
視覚トリックといえば、永遠に流れ落ち続ける水や、上っても上ってものぼり続けることになる階段、不可能に交錯する物見の塔など、MCエッシャーの版画が有名です。
しかし、視覚トリックはエッシャーの専売特許ではありません。
日本で、視覚トリックや、視覚に頼ると驚かされるという要素を取り入れ、ユーモア溢れる中にも高度の完成度を持った独自の作品を、たくさん製作されたのは、グラフィックデザイナーの福田繁雄さんではないでしょうか。
日本のエッシャーとも呼ばれる福田繁雄さんは、2009年1月に他界されましたが、その福田繁雄さんの大回顧展が、現在三重県立美術館で開催されています。過去最大規模の回顧展であり、今後は、川崎市・いわき市・広島市・高崎市・札幌市などを巡回する予定とのことです。
なんだこれは。
と思ってよ〜く見てみると、あっ!こういうことか!良くこんなこと考えついたよなぁ。
とか
う〜む、現に存在するから作れたんだろうけど、一体どうやって作ったんだろうこれ?
と悩まざるを得ないような作品など様々の作品が展示されており、非常に面白い作品展です。視覚に訴えるものが多いため、子供さんでも十分驚きを持って見ることができると思います。
特に、作品名「ランチはヘルメットをかぶって」は、ナイフ・フォークなどを組み合わせて見事にバイクを作っています。本当に作れるの?とお思いでしょうが、ものの見事にバイクが描き出されています。
どういう作品かは、ネットなどで調べずに是非現物をご覧頂くことをお勧めします。きっと、驚かれることでしょう。
子供さんの想像力を刺激するにもぴったりですし、ちょっと足を伸ばせば、伊勢志摩も近いので、夏休みに、家族からどこか連れて行けというプレッシャーを受け続けているお父さんには、是非お勧めしたいスポットです(三重県立美術館での展示は9月4日まで)。
一般800円
高・大生600円
中学生以下無料
三重県立美術館HP
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/index.shtm
〜暑い日のトルチェッロ島(ヴェネチア 撮影者坂野)〜
先日、「こんな日弁連に誰がした」(平凡社新書)の著者でもある、小林正啓先生とお話しする機会があった。
そこで、未だに日弁連が「弁護士は社会生活上の医師として・・・・」といいたがる話が出た。小林先生はかつてブログで、「弁護士=社会生活上の医師」という見解を、ばっさり、弁護士の医師コンプレックスであると断言されている。
http://hanamizukilaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-34ad.html
もう少し分かりやすくいうと、こういうことだ。
医師の相手は、病気だ。病気は人類にとって絶対的に悪だから、相手をやっつければやっつけるだけ、医師は評価されるし、病気と徹底的に闘う医師の使命を果たすことが、そのまま人類のためになる。
しかし、弁護士が誰かに依頼されて相手にするのは、会社か私人だ(国の場合もあるが)。
会社や私人は、私たちと同様に社会生活を送っている存在だ。弁護士が依頼者の希望どおりに相手をやっつければ、依頼者は満足するかもしれないが、相手方は社会生活上深刻なダメージを受ける可能性がある。弁護士が相手をやっつければやっつけるだけ、誰かが痛い目を見ることになるのだ。
だから、極論すれば、弁護士が社会の隅々で活躍する社会とは、社会の隅々で誰かが痛い目にあわされる可能性がある社会と同義なのだ。
医師の仕事は絶対的善であるが、弁護士の仕事は依頼者にとっての善、相対的善にすぎないのであって、小林先生も指摘されているとおり、弁護士は社会生活上の医師どころか、社会生活上の傭兵と評価することも不可能ではない。
弁護士が増えてコストが下がれば、こちらが弁護士(傭兵)を雇いやすくなるから良いじゃないかと単純に考える人もいる。しかし、良く考えてみると、こちらが弁護士を依頼しやすくなることは、こちらを痛い目に遭わせようと考えている人が弁護士を依頼しやすくなることと、表裏一体の関係なのだ。
こちらが全く悪くなく、完全な言いがかりだけの不当訴訟でも、相手が弁護士を立てて提訴してくれば、やむを得ずこちらも弁護士を立てて防衛するしかない。相手が悪いとしても、こちらが依頼する弁護士にかかるコストは、プロの用心棒を雇うことと同じだから当然、自分が負担せざるを得ないのが原則となる。
「弁護士=社会生活上の医師」とのスローガンの下、新人弁護士が就職難に陥っているにもかかわらず、弁護士をどんどん増加させている、現在の司法改革は、働く宛もないのに「社会生活上の傭兵」を次々と社会に招き入れているようなものだ。
武器は持っているが働く場所(法的需要)もなく、生活できない傭兵は、食うために、その武器を誰かに向けざるを得ない時期がやってくるかもしれない。そのターゲットになる誰かとは、病気やショッカー(by仮面ライダー)のような絶対的悪ではなく、普通に暮らしている貴方かもしれないのだ。
弁護士増員さえすれば、本当に社会の問題が解決していくのか、その考えが正しいものなのか。
もう一度良く考えてみる必要があると思う。
※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。
日弁連新聞8月号のコラム「ひまわり」に、法科大学院志願者、さらには法学部志願者の減少が書かれていた。
コラム氏は、経済的・時間的にも法律家になるために負担があることが一因としながら、法律家・弁護士に夢を持つ人が減っているということではないかと指摘している。
実際に、法曹三者(裁判官・検察官・弁護士)を志願する人は、大きく減少している。法科大学院を受験するために必要な適性試験の受験者数は、試験が2回行われ、重複受験するものが多いので、数字上は13000人ほどの志願者となるが、日弁連法務研究財団の発表によると、実際の人数で7211名しかいない。
ちなみに、昨年度の弁護士一括登録時に登録できなかった(就職先が見つからないし、いきなり独立も出来なかったと考えられる)司法修習生は200名以上。
就職難はさらに激化しており、アンケートから推測すると、今年の一括登録時には500名程度の未登録者数がでるのではないかと危惧する方もいる。
この現状なら志願者が、激減して当然だ。むしろ激減しない方がおかしい。
今の制度では、多額の学費と長期間の拘束を余儀なくされながら、きちんと教育の成果を上げられない法科大学院を嫌でも卒業しなくてはならないし、仮に卒業できても新司法試験に3回以内に合格する必要がある。新司法試験に合格できても、給費制が廃止されれば、自費で1年間の修習生活を送る必要がある。必死に頑張って司法修習を自費(若しくは借金)で終えたとしても、2回試験で約7%は落とされるし、2回試験に合格しても2000人中裁判官・検察官になる200人を除いた1800人中、500人以上の就職先がないかもしれないのだ。
誰が好き好んで、高い学費・費用と長い時間を費やして、こんな危険な道を歩こうというのだ。
ちょっと現実を見ることができなくなっている、法科大学院制度擁護の大学教授は、新司法試験の合格率が高くなれば志願者は増えると言い張るが、違うだろう。旧司法試験の合格率は、新司法試験の10分の1以下だったが志願者は毎年増加傾向にあった。
そもそも法科大学院教育を受けてきた、新司法試験の受験者の(全体としての)実力低下は、このブログでも何度か紹介したが、目を覆わんばかりの惨状であって、これ以上無理して合格者を増やせば国民の皆様に迷惑がかかるだろう。
自分たちが、きちんと教育できないことを棚に上げて、新司法試験のせいにするなんて、教育者が聞いてあきれる。法科大学院擁護の大学教授がいうように、法科大学院できちんと教育しているのであれば、また、社会のニーズがあるのなら、新司法試験に合格しなくても法科大学院卒業生は、社会で引っ張りだこのはずだ。
新司法試験の合格率を批判する前に、どれだけの求人が、法科大学院卒業者で新司法試験に合格できなかった方に殺到しているのか、法科大学院側は、明らかにする必要があるのではないか。それもできずに、立派な教育をしていると言い張っても、なんの説得力もない。
※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。
〜暑くてもうダメ・・・(円山動物園 撮影者坂野)〜
雪に閉ざされる田舎町。学校ではいじめられているが、父親と別居し、精神的に不安定な母親に相談できない12歳の少年オーウェン。ある日、隣に年が同じくらいの美少女とその父親らしき男が引っ越してくる。
雪の降り積もる中庭で、裸足で現れたその少女アビー。オーウェンは次第にミステリアスなアビーに惹かれていく。
一方、町ではこれまでにない残酷な猟奇的殺人が頻発するようになる。この事件を追っていた刑事は、捜査を重ね次第にアビーの家に迫るが・・・。
(以下の感想はネタバレを含みます。まず映画をご覧になってからお読み下さい。)
パンフレットも買っておらず、一度見ただけでの私の勝手な感想なのだが、私は、切なく悲しい気持ちが満ちている映画ではないかと感じた。
謎の美少女アビーはヴァンパイア(吸血鬼)である。
生きるためには、人間の血がどうしても必要だ。また、家の住人から招かれなければその家には入れない。
アビーの父親と思われた初老の男は、あとで分かるのだが、アビーのために人間を狩り、アビーのために人間の血を集めてくる役目を負っていた。しかし年齢を重ね、失敗を犯す場合も増えてきていたのだろう。初老の男は、人間を襲って生き血をとることに失敗した際に、アビーに捜査の手が届かないように、自ら酸で顔を焼く。激痛に耐えながらでも身元を分からないようにして、アビーを守ろうとするのだ。そして、最後はアビーに自らの血を提供し、死んでいく。
一方、お互いモールス信号を用いて意思を伝え合ううちに、次第に惹かれ合う、アビーとオーウェン。
アビーの本性に気付いたオーウェンが、それでもアビーを守っていこうと決意し、二人が列車でいずこともなく逃げていくシーンで映画は終わる。
この映画の解釈は、分かれるだろう。
アビーが、もう役に立たなくなった初老の男を見捨てて、新たな下僕として、オーウェンを籠絡したのであり、不死のヴァンパイアとその下僕の男という、吸血鬼と人間の男性とのこの輪廻のような関係が永遠に続いていくという解釈。この解釈は、映画の最後に暗示されるオーウェンとアビーの関係について、アビーの意思が実現されたと捉えるものだ。アビーは12歳の姿をしていながらもヴァンパイアであり極めて長い時間を生きてきたことから、同じ年代の少年を籠絡することは、いとも容易いはずであり、中庭のシーンや、二人のデートもあることから、この解釈は自然なものとも考えられる。
もう一つは、これまではアビーが幾度となく人間の男性を籠絡して下僕としてきたが、今回に限っては、オーウェンが吸血鬼アビーを敢えて自らの決意で支えていくのだという解釈。この解釈は、映画の最後のシーンについては、アビーではなく、オーウェン自身の意志が強く働いていると捉えるものだ。結局、アビーのためにオーウェンが献身するという点で変わらないようにも思うが、アビーにオーウェンを下僕にするという下心がない点で、大きく異なる。
どちらの解釈も可能だとは思う。自信はないが敢えて私は、後者の解釈をとりたい。その理由は、アビー自身今までの生活に疲れた様子を見せていること(この意味で少女でありながら演技によって永遠の生活の疲れを表現しているクロエ・グレース・モレッツは凄い。)、本来食することが出来ない人間界の食べ物をデートの際にオーウェンの勧めに従って口にしたこと、隠れ家でオーウェンの血を見ながらもオーウェンを襲わなかったこと、アビーの本性に気付いたオーウェンが自分の家に入って良いとの許可を出さないのに、アビーは立入り、自ら崩れ去ろうとしたシーンがあること、等の理由からだ。
また、相手を大事に思う気持ちは美しく、かつ切なく悲しいが、吸血鬼であれ、人であれ、そういう気持ちのこもった映画であって欲しいという私自身の勝手な願望も入っているだろう。 だからこそ、アビーが自ら崩れ去ろうとした行為を過大に評価してしまっているのかもしれない。
ただし、初老の男もアビーを心から大事に思うからこそ、自らを犠牲にしてアビーに提供したものであり、そう考えると前者の解釈も十分説得力はある。 アビーの前述の行為も計算し尽くされた演技だったのかもしれない。
これを言っちゃぁ、お終いかもしれないが、女性は現実的であることを痛感している人にとっては前者の解釈、未だ女性に何らかの幻想を抱いている人は後者の解釈をとるのかもしれないね。
〜暑くてもうダメ2(円山動物園 撮影者坂野)〜
以下の文章を読んで、某国のとるべき手段を述べなさい。
某国の話である。
これまで某国では、国家にとって極めて重大な製品Hについて、検査合格率2〜3%という厳しい検査を行い検査に通過した高品質の製品Sを民間から買い上げ、さらに国家がその製品に費用をかけて製品Hとして完成させ必要に応じて国内司法部門で使用していた。
ところが、これまで、その製品Sを作ることに失敗してきたD社が、子会社LS社を設立して猛然と売り込みにやってきた。
LS社のうたい文句はこうだ。
「LS社は厳しく品質管理をしますから、お金はかかるかもしれませんが、今まで以上に絶対良い品質の製品Sを納入します。うちの工場でも品質保証できないところはきちんと淘汰します。製品Sから製品Hまでの過程についても半分ほど進めておきます。ですから製品Sの製作はうちに任せて下さい。」
このようにLS社は言うし、D社の社員である学者達は自分の利権から、また、なんにも知らないマスコミも面白がってそれを後押ししたので、某国司法部門にとって極めて大事な製品Hの元になる製品Sについて、某国では税金を投じてLS社に製作を任せてみることになった。某国としては、本当にLS社の言うとおり高品質な製品Sが作れるのなら、某国司法部門の需要に応じる形であれば、製品Sのうち7割程度は検査に合格させても良いかなと考えていた。
ところが、受注が決まったとたんLS社は製作工場をバカみたいに多数設立し、某国司法部門が必要とする製品H以上の製品Sを製作する体制を整え、大量生産に乗り出した。その結果、某国の投入する税金も高額に上ることになった。
さて、製品Sが出来上がったというので、某国がいつも通りの基準でLS社の製作した製品Sを検査してみたところ、高品質の製品Sを作ると言っていたはずなのに、実際には検査レベルを限界まで落としても2〜3割程度しか合格品はなく、今まで以上に質の悪い製品Sも多く含まれていた。また工場にも優劣が明らかにあるにもかかわらず不良品ばかり作る工場についても一向に淘汰する気配がないし、製品Sから製品Hまでの過程も半分ほど進めておくと言いながら、全く実現していない。
某国が、LS社に対して、おかしいじゃないかと文句を言って改善を求めたところ、現在対応を協議中ですとか、各工場で製作する製品Sの数を若干減らして対応するから大丈夫というばかりで、らちがあかない。
LS社の各地の工場にも問い合わせしてみたところ、製作担当者の話しだが、「実際に国に対して出荷できる出来る水準をクリアーしているといってもよい製品Sは、ひいき目に見て、うちで作る製品Sのうち良くできた方から3分の1くらいまでです。しかし、お金をかけて作っているので、出荷時検査で不良品と分かっていてもLS社の経営戦略上、水準以下の製品Sをはねることが出来ないのです。」との答えが返ってきた。確かに某国は、LS社に全ての製品Sの製作を依頼しているため、検査に合格しない製品Sに対する製作代金まで一部負担している。
何度も改善を求められ、挙げ句の果てには、不良品を多く製作しているくせに逆ギレしたLS社は、自ら約束を反故にしたことは棚に上げ、
「検査でうちの製品Sを多くを合格させないと国際競争で負けるぞ、それでいいのか。当初の予定通り検査では7割ほど合格させるのがスジじゃないのか。検査での合格率を上げないとLS社としても良い材料が手に入らなくなるぞ、それでもいいのか。それよりも、今までの検査が厳しすぎるのが問題だ。うちの商品に合わせた検査に変えるべきだ。製品Sから製品Hまでの過程を半分ほど進めておくといった覚えはない。」と開き直ってきた。
某国はどう対応するべきであろうか。
〜暑くてもうダメ3 (円山動物園 撮影者坂野)〜
大阪弁護士会の中本和洋会長名義で、司法修習修了予定者の採用についての依頼文が配布されている。
日弁連は、司法修習生の就職のために、ひまわり求人求職ナビというサイトを開設し、司法修習生の就職支援を行っているが、
求人登録者数1021名に対して、求人登録数は139件しかない。
どう考えたって、超就職氷河期状態でしょ。というより、もう終わってる状況に近い。
日弁連や各弁護士会は、司法修習生の就職難をなんとか解決しようと必死な様子だが、これを解決させる方法は、ある意味簡単だ。
ニーズがあると言っている人に雇ってもらえばいい。
若しくは、弁護士激増に賛成している人が採用すればいいのだ。
法科大学院の教授がまだまだニーズがあるというなら、法科大学院に法律事務所を作ってもらって、法科大学院附属法律事務所が司法修習生を雇用して、法科大学院教授がいうところのニーズを開拓して、処理すれば良いではないか。
新司法試験に合格したあとの就職の面倒も見てくれるなら、その法科大学院の志願者もきっと増加するだろうし、そのニーズとやらのおかげで収益が上がるだろうから、法科大学院の経営にもプラスになるだろうし、全てうまくいくんじゃないか。
マスコミがニーズがあるというなら、そのマスコミが法律事務所を作って司法修習生を雇用して困っている人を助けたらいいじゃないか。そのニーズによって収益も上がるだろうし、そのマスコミだって、司法修習生ばかりではなく、社会で困っている人を助けたということで、社会的貢献も出来ることになる。絶対イメージもあがるぞ。
次に日弁連は、弁護士激増賛成の弁護士を公表して、司法修習生の雇用を義務づけるべきだ。まさか、ニーズもないのに弁護士激増賛成とは言っていないだろうから、その人達が考えるニーズを司法修習生を雇用して開拓すれば良いだけだ。
さすがに弁護士激増論者と言えども、弁護士激増だけええカッコして発言しておいて、まさかそのツケを他人に回そうという卑怯な人はいないだろう(力一杯、皮肉です)。
どうして、そのようなことを法科大学院もマスコミも激増論者もやらないのか。
本当は、その人達がニーズと言っているものの多くが、本来到底ニーズとは言えない、全くペイしない仕事であることが分かっているからに違いない。
そうでなければ、頭の中に黄色いタンポポが咲き乱れている方々だ、という他ない。
※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。
小さい頃に、実家で紀州犬を飼っていたこともあり、私は犬が大好きだ。
今はもうなくなってしまったが、有馬ワンワンランドで、ペット専門学校の講師をしていたこともあるし、今でも関西学院大学法学部で受け持っている司法特別演習では、ペットの法律問題を取り上げている。
やはり犬の、主人に対するひたむきな目差しには、心癒されるものがある。
ところで、犬の目を、よく見てみると、一重(ひとえ)の犬と二重(ふたえ)の犬があるように見える。
紀州犬に多いのは二重だ。
柴犬は一重のように見えるが、よく見ると、おく二重のように見える場合もある。
実際は、まぶたではないのかもしれないが、よ〜く見てみると、二重のように見える犬が必ずいるはずだ。
犬の瞳について、一重か二重かという話はあまり聞いたことはないが、私自身は小さい頃から、うちの紀州犬は二重の犬だと、ずっと信じてきた。
犬を飼っておられる方は、一度、犬の瞳を注意してご覧になってみてはいかがだろうか。
まだまだ暑いのに、秋の気配とは!、とお叱りを受けるかもしれない。
通勤途中に、大阪市役所の前を通るのだが、そこには、水を霧状に散布して温度を下げるミスト作戦を行っている。大阪市内が朝っぱらから30度以上になることは日常茶飯事なので、既に太陽に熱せられた歩道を歩く私にとって、そのミストは、十分に有り難い。歩行者も出来るだけミストの近くを歩いているように見える。心なしか、市役所前の植木も、そのミストがかかるあたりは、他より元気そうにも見える。
昨日の21時頃、子供の寝る時間とはいっても、まだまだ暑さが消えない大阪市役所前の歩道を、私は、淀屋橋駅に向かって歩いていた。すると、コオロギの鳴き声がミストがかかる植木のあたりから、聞こえてきた。短く2度ほど鳴いて、すぐにその鳴き声は消えた。歩く速度を落としてみたが、もう聞こえない。
多分、私以外の誰も気にも留めていなかったとは思う。しかし、私が耳にしたのは、間違いなく、コオロギの、あの優しい鳴き声だった。
週末に深夜上映の映画を見て、帰宅するときの夜空には、オリオン座が既に大威張りで現れているように、季節は確実に変わりつつある。
〜冬まで寝るわ (円山動物園 撮影者坂野)〜
先日、ある少年事件の抗告審を受任した。
ツイッターで、散々つぶやいていたように、私への依頼が抗告期限7日前、家庭裁判所が決定書きを抗告期限2日前にようやく出してくれたという劣悪な環境の下、私も少年のご両親も全力で動いたつもりだ。
疎明資料も多数提出し、嘆願書の署名も約400名ほど集めた。
しかし、高裁の重い扉は開かなかった。
少年事件の抗告は、非常に厳しい。
時間的にタイトな面もあるが、制度的に自判が許されない厳格な事後審的構造を持っているという面も見逃せない。
少年事件の抗告審は、原則として原決定の当否を審査するもの、つまり、家庭裁判所が審判の時点で入手していた事情に基づいて下された決定が、妥当だったか否かを高裁が審査するものであって、家裁の審判のあとに少年がどれだけ反省を深めようと、少年を取り巻く環境が劇的に変化しようと、基本的にはそのような事情は考慮外なのだ。
逆にいえば、少年審判においては、家庭裁判所での審判が最も重要であるということにもなる。家裁での審判時点でどれだけ反省し、示談を含めてどれだけ環境を整えることが出来ていたかが勝負のキモ、ということだ。
抗告審から受任した事件も、何件かあるが、いずれも、もう少し早く受任して反省を深めることが出来ていれば・・・・・と歯がゆい思いをする事件だった。
反省しろ、反省しろ、と1万回いっても、それだけでは、少年は、悪いことはしたということは理解できても、自分を変えていくような反省は、なかなかできない。だから、付添人が少年の問題点について、ヒントを出しながら考えさせる必要があるのだし、付添人の最大の価値はそこにあると私は思っている。
だからこそ少年事件は時間がかかるし、奥が深い。上手くいった際にはとても嬉しい。
しかし、だからこそ、少年事件は、きっちりやればやるだけ、弁護士の経営的にはペイしない。
生活を超越した表現を行う芸術に携わるものといえども、お金を稼いで生活しなければならないという、芸術家の苦悩にも似た、辛さを味わうことも多いのだ。
〜夜の河童橋 (上高地 撮影者坂野)〜